文章を書く・作家論

 作家論

 若い頃、小説家を目指し、実際に小説のようなモノを書いてみたこともあった。
 そうした志がずっと夢として心に住み着き、現在に至っている。もっとも今や、小説家になるということは幻に過ぎない。 日記だけは続いている。
 原稿用紙にしても400字になるかどうかという短いものだが、こうしてペンを執り、なぐり書きであっても、書くという行為自体こそが自分にとっての夢実現であったのか、と言い聞かせている。他に仕事があって、主にその仕事内容についての記述に過ぎないのだ。公に出来るものではないので、日記帳に手書きが原則だ。

 小説を書こうと思ってもできない。また、机に向かうことが案外できにくい性質であること。単なる怠け者だということ。 しかしながら、怠けにも飽きたと思う頃、ヒョイと図書館にいって、書いてみたりもする。
 それは、単に、田舎の主婦達が農閑期に、井戸端会議にうつつをぬかして、時間をつぶして過ごすようなものと変わりのないものかもしれない。
 思いの有りたけを話すことで、気分もすっきりするものである。
 相手がきちんときいてくれるかどうかは問題ではない。読者が読んでくれて、妥当な評価をしてくれれば無論有り難いが、あまり期待されすぎて、次から書きにくくなっては、元も子もない。
 この事では、偶然見た、教育番組が大きく印象に残っている。
 世界の授業、とかいう題目だった。
 オリンピック・レスリング部門で連覇を達成したロシア選手のことである。自分が編み出した技にこだわり、更なる勝利は達成できなかったが、後悔の念は全くないと述べていた。
 そもそも金メダルを獲得したからと言って、その喜びはせいぜい時間にして三十分も続くかどうか、だという。
 更に喜ぶような暇があるなら、次なる試合に向けてまた練習を続行することの方が重要なのだとする。
 そして選手生命が長く続けられることこそが、選手にとって最も幸せなのだとする。
 レスリングのような、肉体競技の場合、限界というのはありそうな気もするが、意外な考えだった。この意外性にこそ王者たるゆえんがあるのかもしれないと、テレビ番組ではあったが、十数年経っても覚えている。

 ノーベル文学賞を受賞した女性作家も同じ趣旨の事を述べていた。受賞の知らせを聞いて、とても驚いた。しかし、受賞前の昨日までと現在とで大きく自分が変わったとも思えない。これまでと同じように書いていくだけのことだ、と。
 大物の片鱗を伺わせるとても謙虚な言葉だと思った。
 同時に、世界的な文学賞を受賞しておきながら、無名時代と同じ静かな環境に身を置くことは無不(むず)かしいことかもしれない。およそ、誰の干渉も受けず、碌々(ろくろく)と書き続けることの有意義さを述べているようにも思った。

 小説家に学ぶことは多い。疲れが残ろうがどうであれ、決まった時間、決まった場所で書くと言うこと。この点、余暇がそれなりにあって、給料が低く、世間並みな遊びの出来にくいモノには、誠に、模範にすべきは小説家の仕事かもしれない。
 書くことは少なくとも経費は最小限に抑えられるではないか。
 マクドナルド店か、図書館に行って書いてみる。あるいは、自宅で発泡酒を飲み、NHKラジオでも聞きながら、書いてみる。一日書いても経費はせいぜい五百円かそこらである。
 もっとも、流行小説家が「仕事場」にしているような名曲喫茶とか眺めの良い市民ホテルなどを利用するとなると、若干お金はかかってしまう。