甲子園大会開幕

 甲子園・高校野球大会が始まった。
以下、大会関係者祝辞の内容。

 まず、行進を終えた選手達が現に、並んでいるグランドの歴史について述べた。今年改修を終えたばかりであること。戦時中、空襲でB29の軍機が、うなり音を響かせてこの上を舞ったこと。戦後の食糧難で、芋畑にもなったこと。こうした過去を全く感じさせない檜舞台として生まれ変わった球場にいる諸君は全くの幸せものだ、と感想を差し挟んだ。

 次ぎに、選手の心構えについて述べた。どのチームも厳しい戦いを勝ち抜いてきたチームばかりである。勝利することは並大抵なことではない。そんな強豪と試合できるだけでも大変幸運なのだという気持ちを忘れず、試合に集中して欲しい。

 最後に観客に対するもの。ひとつひとつの歓声が、選手に思わぬ好プレイを発揮させることもある。心に残るような一瞬を引き出すよう、惜しみなく声援を送ってほしい。

 野球が各競技の一つであるというだけでなく、試合をめぐる熱気が、夏の風物詩、ひいては、日本の文化として息づくようになることを願っている。


 大体こんな趣旨だったように思う。戦う当事者にしてみれば、勝敗至上主義みたいなところがあるかもしれないが、主催者として、核心は突かず、球場環境、選手、観客と、野球大会を構成するもののあるべき姿を淡々と述べて、聞く者をして、なるほどと思わせる内容であった。

  小説を読むということは、活字を通じて(ありえない、あるいはありそうな)現実を、読者が自らの心において、空想の世界として作り上げていくというような側面がある。
 これに対して、野球は、「記録としての言葉」の可能性を学習する好機でもある。カメラといった媒介を通じてであるにせよ、現に目の前で起きていることを、アナウンサーがどのような言葉を通じて表現してくれるか、あるいは、スポーツ紙面で、どのような言葉で表現してくれるか、興味ぶかい。
 自分の感性と異なる報道がなされることもあろう。
 つまり、野球は、野球という現実に対して、記録として言葉を使ってどのように描くか、その技術を学習する上で、生きた教材でもあることだ。