O君の死

 よこて広報を郷里の市役所から送ってもらっている。おくやみ欄に、O君の名前があった。年齢、地域からしてO君に間違いない。
秋田県は今回の地震の被害は殆ど無いので死因は地震とは関係ないだろう。はっきりとは分からない。 それにしても五十代半ばの死は早い。年賀状のやり取りをするだけの仲になってしまったが、O君とは中学・高校と一緒で、特に中三にあっては同じクラスであった。
 クラス級長であり、剣道部の主将であり、生徒会役員でもあり、おまけに美少年とあって、女生徒からの人気もあったようだ。
 高校を卒業して大病にあった。難手術を切り抜けられたのは、若さだった、とも言っていた。
 O君は神奈川の私立大学に通学、私の学生寮にも泊まったことがあった。
 私と同じ、珍しい一人っ子だったので、どこか似たもの同士の面があったかもしれない。
 しかし、団体職員と学校保健婦のおかあさんとで裕福な育ちだった。
 中三の時、彼の家に宿泊したこともある。彼はどうしてボクを招待してくれたのだろう?
 学校を出てからは、年賀状をやりとししていた。 20歳、38歳の同窓会で少し話をした。
また、一度横手市の路上で会ったことがあるような気がする。
 しかし、あっけないほど、短い会話であった。O君も、私も何をしていて生計を立てているかのか、立ち入った話はしなかった。
 O君はボクと違って、大勢の前でも物怖じせず、話のできる人でうらやましかった。しかし、両親に大事に育てられた点では、共通な所もあり、どこかひ弱なところもあったろう。
 秋田の地元に就職したようだが、世間の荒波をしぶとくわたっていけたかどうか・・。
 それでも、30前後で結婚、ボクと異なり順調に父親となり、世間を渡っていっているようだった。
 
 O君は、あの世に逝ってしまった。
 交流はなかったが、毎年の年賀状を見ると、お互いなんとか生きているのだなあという思いはあった。
 私は嫌な仕事から解放されたくて、不動産に手を染めているが、それがため、却って自分のクビを絞めるような自体に陥っている。
 
 会社にあっては、出会う人間は鬼ばかり、本当に人間ほどこの世に恐ろしいものはないと思っている。
 もう一つの夢は、教員免許の資格を生かして、学校の臨時講師をもめざしてはいる。しかし、やっていけるかどうか?
 自分がやってきた学習塾とも違うだろう。
 福島でも、宮城でも、岩手でも、こじんまりとした過疎地域で、学校の臨時講師として、やっていけたら、と思う。
 まずは、悪質入居者に出て貰う、そうして、ちゃんとした人に利用してもらう。
 学校の講師で期待できる収入はせいぜい10万円かそこら。あとは賃料収入でやっていかねばならないだろう。

 O君の冥福を祈る。そして、自分の残りの人生が無事であることも・・。