「物語としてのアパート」近藤祐著書、彩流社、を読んでいる。出たいけれど出られず、木造はパートにて長く暮らした小説家をこの書では取り上げている。きっと高収入をあげていると思いきや、そうでない小説家もいるらしい。萩原朔太郎氏の娘、萩原葉子氏などもこの書で取り上げられている。芸術的な文章を書き上げたからには、何か特殊な環境に暮らしたのではないか、凡人はそのように思ったりする。人は、どうして、有名な小説家の跡をたどりたいと思ったりするのだろうか?そういえば、小説家ではないが、「東京物語」に心酔したフランスの映画監督が、東京を訪れて、記録映画を撮ったものがあったように思う。ちなみに、フランス映画でも個性的な、エリックロメール監督などは、ほとんど外国へ行ったことがないそうだ。話をもとにもどそう。小説家は誰にもなれるものではない。これからどんなにあなたが、あがいたとしても、小説家になる見込みはありません、と言われても、少しでも彼らに近づいてみたいと願うのは、おかしなことであろうか?俳優と同じ衣装を身につけて町をあるいてみたいと思うのと同じで、すぐれた小説家と似たような環境で、暮らしてみたい、あるいは、同じ味のコーヒーを飲んでみたい、とおもったりするのは、別におかしなことではない、と思う。その意味で、森茉莉氏は、きわめて身近な人だと思った。私は、小説は読んだことはないが、鴎外はよく読んだ。渋江抽斉などはそのひとつである。鴎外は、自分と同じ考えで生きた文化人をそこで探したのである。伊沢ランケンとか北条かてい、などもそうであろう。話を元にもどそう。森茉莉氏のように、贅沢貧乏な世界を描くことはできないが、同じような生活を、形だけでも、することは可能のようである。下北沢駅から徒歩約12分、賃貸で約8万円。入居時にはざっと40万円はかかるだろう。これが森氏の暮らした住宅の現在の賃料のようである。してみると、年収350万円から400万円あれば、周辺で生活は可能である。

森茉莉氏を読んでいる。「物語としてのアパート」近藤祐である。

森茉莉氏を読んでいる。「物語としてのアパート」近藤祐である。

森茉莉氏を読んでいる。「物語としてのアパート」近藤祐である。