物語としてのアパート

芸術家に関して、年収がどうのと詮索するのは、品位を損なう行為なのかもしれないが、凡人が、できるのは、その程度でしかない。頭をどんなにひねっても、時間を与えられても、森茉莉氏のごとく文章をつむぎだせるものではない。できるのは、似たような環境に身を置き、似たような生活をすることであろう。しかし、年収300万円を稼ぐのでも大変である。その中で、文章を書くのも大変なことであろう。年々歳々、再々年々、特に50歳を過ぎると、頭の働く時間帯は、朝の数時間だけである。あとは、呆然としている。他の人はどうかわからないが。その朝の、快適な時間を、日々の稼ぎに(仕事に)ささげなくてはならない。森茉莉氏はその時間を、創作にささげたのである。もっとも、父親の鴎外も、日中は、医師として、過ごした。そうして、夜に起きたらすぐに頭脳労働ができるように、ランプをつけたまま眠ったとも書いている。五十代で亡くなったのは、睡眠時間の少なさによるものかもしれない。さて、脱線してしまったが、森茉莉氏に似た生活をするのは、定年退職して仕事から解放された人ならできないことはない。だから、私も、その日の来るのを辛抱強く待つしかない。小説の「し」も、書く可能性もないのだが、静かな木造アパートに暮らし、朝のまだ、頭脳が新鮮なうち、自分のおいたちを書いたりして、そして、「じゃしゅうもん」のような喫茶店に通ったりして、匿名性の強い、生活を送ることは、不可能ではない。私は、そんな生活を送ってみたい。ちなみに、森茉莉さんの暮らしたアパートの広さは、六畳一間で、トイレ、洗面、洗濯などは、共同であったらしい。朝、起きて、午前中は机に向かう。昼は少し散歩する。夜は、料理を作る。夕食であり、翌日の二食事分。あるいは、外食。テレビ、新聞などはなく、およそラジオで下界の情報を得る。一年、365日、自宅アパート周辺を出ることなく、質素倹約につとめて日々、文章をかくことのみ、専念する。ただし、その文章は誰も読んでくれない。書くために書く。そうして、ある日、ミイラと化して、大家さんに見つけられる・・。そんなことは、私にもできそうな感じがする。