「吾輩は猫である」

吾輩は猫である」が座右の書となっている。表現の手本となる所には傍線を引いたりするが、そのどれを取っても含蓄が深い。
◎いささか手持無沙汰の体である
◎胸倉をとられて小突き廻される
◎始末に終えねえ阿魔だ
◎人を見溢(みくび)った事をいうねえ
◎今までの行き掛かりは忘れて

たまたまめくった中でも、黙読して看過できない表現が満載されている。さしずめ、ファーブルが昆虫を求めて森の中に入るように、漱石の書を漫遊するのである。

ところで、太宰治人間失格」を読むと、太宰治も、「吾輩は猫である」を読んでいることが叙述されている。どちらも現代で最も読まれていると言われている小説であるので興味深い。
太宰治は「走れメロス」を私は何度か読んだことがあるが、これまた一文一文が芸術品である。
シェイクスピアの文章を一部変更することは、エジプトのピラミッドから石を引き抜くより難しいとも言われているが、太宰治などは、日本人にとってシェイクスピアなのかもしれない。
しかし、文章からも分かるように、太宰治は結婚式もまともに行えないほどお金に苦労していたらしい。(富岳百景にある)大人になっても実家からの送金が頼りだったのだ。漱石などは新聞社に連載までしていた関係で、大変な金満家であったのとは対照的である。
太宰治は、小説家としては不遇だったことが予想されるが、現代の「古典」として読み継がれるような作品を多く遺した。私は小説の才能はないが、書くことで、心の浄化作用になるので、習慣的にしている。また、書くことは時間つぶしにもなるし、お金もそれほどかからない。貧しい者に向いている。