アリストテレス

今日も暑い一日だった。マクドナルドにて、この過酷な暑さを乗り切ろうとした。コーヒーを飲みつつ、漱石の「猫」を読む。

「猫」の成り立ちについて言えば、 元々、一で完結するはずだったが、評判が良く、二が出て、三・四と続く。結果として十前後まで続く長編となってしまった。
 
 読み方としては、一気に全部読もうなどと思わず、一日で一つ位を目安にするのが良いかもしれない。

 さて、金満家の金田が、物理学者・水島寒月をお婿に迎えようとたくらむ。この学者の卵、寒月君は、くしゃみ先生を尊敬し、およそ言うことも素直にきく。
 その師弟関係に着目して、同じ学生時代の友人で、実業界に入った鈴木氏を、くしゃみ先生に遣わす。
 この二人が、金田家の娘・花子と寒月君の結婚について雑談まじりに話をする。
 ここへ、金満家を良く思わぬ美学者・迷亭なる者が加わって、結婚話は迷宮入りしてしまう。

 ここでアリストテレスの主張が余興として紹介される。

 当時は、運動競技は盛んであった。競技に勝利したものには様々な物品が送られた。これは現在も似たようなものである。競技と物品と比較してみると、物品の方に色々な面で価値があるので、この価値ある物を手中に納めるべく肉体上の競技が行われた。
 これに対して、「知識」というのにも褒美として物品が与えられることもあったが、長くは続かなかった。モノにつられることなく、知識への渇望は衰えなかった。
 それは、知識は、取り組むこと自体が快楽であり、永続的なものだからである。
 日々、何らかの知識を獲得していく過程は、一時的に物質を得ること以上のものがある、というのである。

 私は、これまでに、何人もの頭脳優秀な人を見てきた。そうでなくとも、マスコミを通じても、彼らの知識に触れる機会がある。
 話しぶりをみて、どうあがいても、そうした人たちの足元にさえも、及ぶモノではないのだということを納得している。「猫」にしても、全文を暗記し、表現を知り尽くしている人だって居るだろう。
 それでも、「猫」の中味をわかろうとして、読書をし、こうして、わかったつもりになって、感想を書いたりもしている。

 結果ではなくて、この知識に接する過程に人間に根源的な面白さがあるのだろうと理解している。
 大学教授のように何遍と無く、「猫」を語り、更に「猫」を読み、関連資料を読んだ人でも、ごく一時的に、私のように「猫」を読むモノにも、等しく、鑑賞することを可能とさせてくれるような懐の深い面が、あるのだろう。

 しかし、そのような余暇を得るにも、生活の為の仕事をして、生きていく上に必須な物質を得なくてはならない、というのも事実である。