医療の進歩による延命は幸福を呼ぶか
今年68歳になる従兄から電話が来た。(またか・・)
こういった内容だ。
母親がもう90歳を過ぎているが、病院で寝たきりである。胃に直接栄養を送る器具を取り付けている。息子である自分が現れても認識できているか分からない。すべて保険でまかない切れず、入院費用もままならない。母親自身の貯金も底を突きそうな雲いきだ。
さて、従兄一家は、高齢のご母堂を除くと、61歳の弟との二人暮らし。どちらも結婚歴はない。
弟は、板前の技術があり、ホテルとかで臨時に働いている。兄も、最近まで臨時にガードマンをしていたが、今は、無職。というより、幾ばくかの年金。
東京・渋谷に近く、最寄りの駅に10分以内で、閑静な住宅街という好立地もあって、築80年にもかかわらず、二階は間借りに出し、お客も付いている。
恐らく大震災直後に建てられたのだろう。風呂がないのと、二階への階段が狭いのが難点。同じ二階に住む従兄は、(趣味の競馬・馬券)を買いに行くこと以外で出かけることもない。ほとんど、その四畳半の狭い部屋で過ごしているようだ。
「もう、オレも弟も、生きてせいぜい10年。他人に貸したら面倒なことになる」と、賃貸には消極的だ。
次男坊だけは結婚して近郊に暮らしている。孫もできた。小学生になる孫に、百科事典を買って送ってやろうかと考えている、という。
私、曰く。「今はネットの時代だから、分からないのは、スグ調べられる。住宅が広いなら良いけど、狭いウチだと、事典なんてもらっても、ありがた迷惑になってしまうよ」。
そうしたら、従兄は言う。「秋葉原事件じゃないけど、ネットは何でもできちゃうから、こわい。」
「それもそうだね。勉強の調べ者でみたつもりが、フイっと、成人向けのサイトにのめり込むことだってあるからね。」
話は尽きなかったが、電話代のこともあるので、このへんで終わった。
それにしても、医療の進歩で、人間の命は器械的に延ばすのは可能のようだが、それで生きている者達が、経済的に苦しむのだとしたら、それは愚かなことではないか、ということを考えさせられた電話でえあった。