私の書斎

私の書斎
 書斎といえるかどうか分からないが、私は、共同住宅に暮らし、南側にある四畳半ほどの部屋に雑然と書籍等を置いている。なんとかして、もっとシンプル(簡素)な空間にしたいものだと苦慮している。今の時期になると株式の配当などが次々と舞い込むのだが、早めに配当を受けて、同封された会社情報などすぐ捨てるようにしている。
 良好な書斎とは、必要なものがあれば、すぐ取り出せるようになっていることだと思うが、そのようにすることは難しい。
私には新聞切り抜きの習慣がある。切り抜いてはファイルに入れるようにしている。何年も続けていると、ファイルも多くなるが、それを置く空間には制限がある。情報は生き物なので、不要なモノは捨て、必要なモノを残すようにしなければならない。捨てる作業も、集める以上に重要だ。
 私は野球が好きだ。バレンタイン監督でロッテが優勝した時があった、感極まって、関連する記事をこまめに切り抜いて入れたものだ。今年もロッテが優勝したが、息子も以前ほど興味を示さなくなった。それで、現在過去を含めて、野球記事は、ばっさりとファイルから取り除いてしまった。それでも、野球ファンであることには変わりない。プロ野球の良さは、実際のゲームをテレビなどで見ることができることであろう。そうして、翌日に記者の記事を読むのが楽しみだ。現実に自分の脳裏に焼き付いているようなプレィをどのように表現しているか、とか。記事を通じて、文章表現が学べるということだ。その点小説の中でも特に私小説とよばれるものは、作家自身がどのような現実を踏まえて表現しているのかわからないようなところがある。文中の表現が現実の事件に対して適切なものかどうか判断もつかないこともある。あるいは、この世にありえない現実を表現しようとしているのかもしれないのだが・・。
 さて、話を元にもどそう。
パソコンのフロッピーディスクとか、カセットテープとか、CDとか、そうしたものも部屋には沢山ある。パソコンなども中古など安く買えようになってから買い換えが頻繁になり、古いモノが使われずに何台かある。最近は、世界名画のDVDなどといったものも増えている。
 いつかまた見るのではないか、読むかもしれない。捨てるのはもったいない、こんなことを思っていると、あっという間に部屋は混沌としたゴミ容器のようになってしまう。
 欲しいモノを手に入れることは、それと同時に、そのモノを置くことによって失われる空間もあるという気持ちを持つようにしなければならない。モノもお金なら、空間も立派にお金のかかっている「品物」なのだ、と。
 通帳とか資格の免状など、重要なものが他のどうでも良いような書類に紛れて行方しれずになってしまうという事態は避けねばならない。年が明けると確定申告の時期になる。医療費の領収書などは無論、郵便で届く社会保険費用など申告に必要なものがすぐ準備できるようになっていることが大切だ。

広くてゆったりとしたとした住宅に住まなくとも、そして整然とした書棚を持たなくとも文化的生活を送ることは可能であろう。松尾芭蕉は、旅の中で多くの句を残しているが、彼にとって書斎は、頭の中にあったという言い方が妥当なのかもしれないが、現実に、書物に囲まれ、読書にあけくれていたというような日常は想像しにくい。自然を良く観察しては、適切な言葉を探すことで時間を過ごして居たのだろう。しかも旅先の粗末な部屋で創作活動をしていたにちがいない。太宰治といえば漱石とならんで最も読まれている作家である。その彼もまた、書斎と呼べるような部屋などもっていなかったようだ。引越しをよくして、また、生活も実家からの送金を当てにしていたようで、学生下宿に毛の生えたような部屋に暮らし、本など置くような場所もなかったのではあるまいか。読んだとしても、かたっぱしから捨ててしまったのかもしれない。作家として名前が知られる頃は空襲も激しくなった頃でもあり、実際、家も焼かれたと記憶している。大切なものは、苦悩しながら表現を探し当てるという、目に見えないものだったのだろう。事実、日々苦しい創作活動であったと随所に述べている。
 何一つない部屋でも、表現しようとする気持ちが湧いたなら、それに忠実にノートなどに記していくこと。それを継続して行うこと。その活動の中に自然と文化的活動と呼べるものが現れてくると言った方がよいのかもしれない。
 新聞には定期的に書評欄が掲載されるが、読んでみたいと思ったら、題名や出版社名を手帳に記録する程度のことはしておきたい、そして、図書館とかで読む。それで読む機会に恵まれたら、書き写すか、何ページがよかったとか、書いておくようにしたい。